帰省した実家に残してあった西部邁の『新・学問論』を再読した(1/5読了)。アトウェルに通ずる部分を見出した。
本書出版当時,私は大学院修士課程学生だったが,出版後すぐに生協で買って読んだ形跡がある。内容は全く忘れていた。
東大教養学部の教員人事をめぐってトラブルがあり,西部氏はその後東大を辞めている。その翌年本書は出版された。当時の大学に対する批判が書かれているが,具体的にはそのトラブルで明らかになった大学の現状を念頭に置いているのだろう。今回再読して注目したのは,その現状を変えるための方策として書かれていることである。
こういう教育の荒廃に立ち向かうにはどうすればよいか,特効ある処方が備わっているわけではない。というより,ごく当たり前のことをやり直す以外に手はないのである。具体的には,活気ある言語生活を大学の場に取り戻すことである。その一つは,学生たちが教師を交えて活発に議論するという風習を確立し,そのなかで,専門主義を超克し相対主義を克服していく必要と手立てをみつけることだと思われる。
もう一つは,学生が自分で論文を,とりわけ専門主義と相対主義の何たるかを理解しつつ,それらを超えていく方向での論文を書く機会を増やすことである。……授業も読書もそういう実践のための素材や切掛を提供するためのものにすぎないのである。(以上,127-128頁)
問題は,無為に追い詰められているのだ,あるいは虚無に漂わされているのだということを学生が自覚し,その自覚をいっそう促す必要があるのだということを教師が自覚し,その自覚を現実のものとするために学生と教師のあいだで活発な討論をすることだ。……言葉遣いにおいて未熟であるのが青年というものなのだが,その青年たちが,自分らを活気づける唯一の手立てとして,大人も顔負けの綿密さで議論しなければならないのである。この難事においては,大人たちが旧来に倍する協力をもって議論を誘発し,それに関与しなければならないであろう。(131-132頁)
ここにアトウェルとのつながりを見出す人は少ないだろうが,西部氏が目指す教育とアトウェルの授業は同じ方向を目指しているように感じる。
あれから30年。専門主義と相対主義の大学は依然として続いている。相対主義の批判的効力がなくなった現在では,事態はさらに悪化している。
「ごく当たり前のことをやり直す以外に手はない」。私は,アトウェルと大村はまを手がかりに,これを始めようと思う。
【天気】晴れのち曇り。昨日,家計簿とカレンダーを買おうと思って北千住マルイに行ったら,紀伊國屋書店がなくなってい。調べたら,昨年7月に閉店したという。ショックだった。学生には本屋に行くことを勧めていながら,自分では全く行っていなかったことを思い知らされた。「自分でもやってみる」,これを何事にも徹底したい。