期末学力考査の採点をしている。学生が書いた答案を読んで,点数を付けるのだが,この作業は苦行と言っていい。私は,31問中30問はマーク式にして機械で採点するようにしているので,だいぶ労力は少ないのだが,それでも多数の記述式の答案を採点するのは大変だ。
この作業が特につらく感じられるのは,そうして費やされた自分の労力が果たしてどれだけの意味を持っているのか,実感できないことによる(少なくとも私の場合)。もし,この苦行が何らかの形で報われるならば,それは,もしかしたら苦行ではなくなるかもしれない。
そんなときに思い出されるのが,茂木健一郎さんの「大学というシステムが終わっている」という言葉である。茂木さんは梅田望夫さんとの対談で次のように言っている(梅田望夫・茂木健一郎『フューチャリスト宣言』ちくま新書,2007年,100頁)。
茂木 大学というシステムが終わっていることは体感でわかるんですよ。つまり,クラスルームに行って講義するまではいいのですが,その後宿題を出して,レポートや試験の採点をして成績をつけるという一連のプロセスがまったくナンセンス。学生の時は意味があると思っていたけれど……。
梅田 僕は学生のころ,最後まで良い成績を取ろうと考えていたんだけれど,あるとき,これには何の意味があるんだろうと思い始めた。でもきっと何か意味があるんだろうと思って最後までがんばったんですが,結局意味はなかったですね。
茂木 おそらく教える側からしても,まったく意味がないと思いますよ。本音を言えばしょうがないからやっているんでしょう。……
同感だ。梅田さんは,だから大学の教員にはならない,という。これは一つの選択である。しかし,大学教員をやめられない者にとっては,今の大学というシステムの中で,何とか意味のあることを模索するしかない。
現状では,学生が頭をひねって執筆し,それを教員がそれなりの労力を割いて採点しても,その結果は2か月以上経ってから学生に科目全体の成績としてAとかBとかいう形で知らされるだけである。この評価のあり方自体に大きな問題がある。
もし,学生の努力の結果に対して学期中に教員からフィードバックがなされ,それが次の学生の努力につながっていくならば,それは学生にとっても教員にとっても意味のあることとなるだろう。今の大学においても実技が重要な分野や,大学院の研究指導などではそうした意味のある教育がなされていることだと思う。問題は,大人数の講義科目でどうするかだ。
ウェブ環境の発達により,大人数のクラスでも学期中に教員と学生が頻繁にやりとりをすることは可能となっている。問題は,一人の教員が相手にできる学生の数には限りがあるということである。この問題も,ピアレビューを導入することより克服できるのではないか。今はそこに希望を見出している。
【天気】晴れ。